朽ちた灰色の世界にプリウスの甘い芳香が漂う。
正面の褥に筋肉質で引き締まった痩身を晒すラグナウェルの姿。 実年齢は十六歳の少年である筈だが、その肉体は少年の面影を残しつつ、既に成人男子と見紛う屈強な体躯を誇っていた。 父ルドルフ・オルカザードとの同化が進んでいる証であろう。 事実、先日ファナ=ローズオビリアから受けた傷も、今は跡形も無い。 大屍族の再生能力の為せる業である。
「理解したか?」
ラグナウェルの言葉に反応して、彼の膝の上で小さな影がもぞもぞと動く、
「うにゅ、プルはモグモグ……お寝坊な“グラなんとか”をモグモグ……たたきモグ、起こせばいいのですね……ゴクン」
プルミエールが兄の膝の上で、燻製肉を口いっぱいに頬張ったまま器用に喋る。 咀嚼と発声があべこべなので、一見すると奇抜な腹話術のようだ。 屍族は基本的に食事を必要としないが、人族であるプルミエールは別だ。 差し当たり必要な数日分の食料を調達したが、その大半が僅か半日で、この小さな大食漢の胃袋に収まろうとしていた。 頬を引き攣らせるラールウェアとは対照的に、アーネルの口元には微笑の影がある。
「そんなところだ」
ラグナウェルは、からかうように顔をにやつかせると、瑠璃杯を傾けて貴紅酒を呷る。
彼にとってプルミエールの存在は手近な玩具に等しいのだろう。 宿願を果たす為に、有効な手駒であることには違いないが、復讐の対象として、壊す愉しみも内在した少女である。 事実、アーネルの制止がなければ、あのまま欲望の赴くままに穢し尽くしていただろう。
「(それよりもだ……)」
ラグナウェルは、プルミエールが本心から寝返ったと信じてはいなかった。 真実を告げられて変心したと、安易に受けとることも出来なくはない。 だが、自分を凌辱しようとした相手に対して、一夜にして手のひらを返して好意を抱くとは、俄には信じ難かった。 逃げだす隙を窺う為、もしくは、寝首をかく為に従順さを装うぐらいの頭が回ってもおかしくない。 そして、それは第三者の入れ知恵である可能性もある。
「(やりかねない奴がいるしな……)」
ラグナウェルの圧するような視線を、アーネルは動じることなく、正面から受けた。
もとより簡単に尻尾をだすわけもない
「(少なくとも、アーデルハイトの身柄がこちらにある間は、裏切ることはないだろうがな)」
ラグナウェルが思索の檻に閉じこもっていると、業を煮やしたように地団駄を踏む靴音が耳朶を打つ。
「このお馬鹿、ぜったいわかってない」
忌々しそうに腕を組んだラールウェアが一言。 此方は数刻前、プルミエールとの陣取り合戦に負け、定位置を奪われて気もそぞろである。
「バカって言うほうがバカです」
「アタシがバカ!? 若干五歳で第三圏と四冠域の屍霊術を自在に操り、オルカザードの至宝、大賢者イグリナートの再来と讃えられたこのアタシが?」
ラールウェアが白銀髪を逆立てて、不当な主張の撤回を要求する。
そして馬鹿にもわかるように「アタシの凄さ」を説明してあげると鼻息を荒くした。
「いい、よーく聞きなさい。 この世界の魔法は大きく三つの系統に分かれているの」
ラールウェアはできの悪い生徒にも理解できるようにと、魔法の基礎講座から語りだした。
一つ目は様々な術具や触媒、魔法陣を用いて術を構築する儀式魔術(典礼魔術)。 主に人族が行使する魔法。 ここアルル=モアには西大陸で唯一、儀式魔術が学べるアルバテル魔召殿がある。
二つ目は精霊と契約して、それを使役する精霊魔術。 こちらは主に古種族のひとつ妖精族が得意としている。
三つ目は世界から失われた威霊―――旧神や天使・魔界の大公たちのチカラを借り受ける屍霊術。
「これはアタシたち屍族が得意としてるわね。 名前の通り、屍霊を触媒に異界に干渉する術式で、更に三つに細分化されてるわ」
物質的な破壊を齎す“インフェルノ(Inferno)”。 幻覚・催眠など対象の精神に訴える“プルガトーリオ(Purgatorio)”。 癒しと呪いを司る“パラディーゾ(Paradiso)”である。 其々がさまざまな霊的因子を言霊や紋様を媒介として、異界への相互干渉を以って力と成す術式である。 インフェルノは“九つの圏”が存在し深層域に達するほど上位の術式に分類される。 プルガトーリオは並列する“七つの冠”の存在が確認されている。 パラディーゾは十の天領域に区分され、こちらは高層域になるほど高度な術式であると―――
最後に屍霊術は、生まれ持った特性で扱える系統が限られており、アタシのように破壊系の“インフェルノ”と精神系の“プルガトーリオ”の両方を扱える術師は珍しいのだと、得意気に付け加えてから説明を終えた。
「ふふーん、プルだって五歳のときからアリアリをあやつり、アダマストルのさいやく(災厄)、ぼうてい(暴帝)ナントカのさいらいと、にっきに書かれたです」
研鑽と称賛の過去にただの陰口で対抗するお馬鹿。 無論、本人はそう思っていない。
先ほどから、幾度も繰り返されている非生産的なやり取りである。 加えて、基本、無関心のラグナウェルと、このやり取りを何処か楽しんでいる節があるアーネル。 外野の二人が傍観を決め込んでいる為、収拾がつかない。
「お兄様は命を狙われているの。 いざその時になって、知らなかったじゃすまない問題なんだからね」
「なぬ、ホントーですか?」
プルミエールが眉根を曇らせてラグナウェルを見上げる。
「ああ、俺の命を狙っているのはファナ=ローズオリビア。 クソ親父の屍血姫だった女だ。 いや、今もそうあり続ける亡霊といったところか」
ラグナウェルが忌々しそうに瑠璃杯を壁際に投げつけた。
“屍血姫”とはエルダーと称される二十二家に名を連ねる大屍族に永遠の忠誠と隷属を誓う下僕である。
その存在は定められた役割によって大きく2つに分けられている。 ひとりは、主人の剣となるべき存在。 それは“屍姫(屍鬼)”と呼ばれ、太古の契約により半恒久的な生命を得た不死者の従僕である。 もう一方は、主人の欲望を満たすべくその身を捧げる存在。 こちらは“血姫(血鬼)”と呼ばれ、自らの血を捧げる呪約と共に不老を得た従僕である。
「半屍族であるお兄様が魔術師の血統アルカナを継承するには、お父様の存在そのものを取り込むしか方法がなかったの。 その時は考えもしなかったけど、お兄様の中でお父様が生き続けている限り、その屍姫であるファナ=ローズオリビアは不死であり続ける。 つまり、アタシたちは不死身のバケモノに命を狙われているわけよ」
エルダーと屍血姫の間には、単純なる隷属関係を除けば、主従関係以上の絆が生まれることがある。 ルドルフとファナの関係は後者であったようだ。
「そして最悪なのは、ファナ=ローズオリビアとお父様との間に結ばれた血の契約を解かない限り、アタシはいつまで経ってもお兄様の屍血姫になれず仕舞いってところ」
ラールウェアの声は苦々しげである。
新たな屍血姫と血の契りを結ぶ方法は、渇きの継承によって血統アルカナが受け継がれた場合と、従属する屍血姫に欠員がでた場合に限られていた。
「俺がクソ親父の魂魄を完全に制圧しても、ファナ=ローズオリビアとの間に結ばれた血約が解消される保障はない。 故に、あのトチ狂った仇討ち女に対抗する手段が必要なわけさ」
「プルのラグナ兄さまをイジメルなんてユルさないです。 コテンパンにするです!」
プルミエールがぷにっと軟らかそうな両頬を膨らませて怒気を顕にする。 心なしか頭の左右で結われている金髪が逆立ってみえた。
「いつから馬鹿プリのモノになったのよ。 お兄様はアタシのモノって十六年前から決まっているのよ」
ラールウェア命名―――お馬鹿なプリンセス、略して馬鹿プリ。 この先、一生涯付き合う羽目になる蔑称が誕生した瞬間であった。 後日談で、当時は名を呼ぶこともおぞましかったと苦々しく語られることになる。
「それならプルは十七年前から決まっていました」
「ふふん、実はアタシは十八年だったのよ。 ていうか、十七年前じゃ、馬鹿プリもお兄様も、生まれてないでしょ」
そして、再現する 罵倒の応酬。
売り言葉に買い言葉、倫理や常識さえも捨て値で投売り状態だ。 既に厳守すべき最低限の事象さえ超越していた。
「そんなことどうでもいいのです。 だいじなのはラグナ兄さまがプルのだってことです」
「確かにどうでもいい。 話を戻すぞ」
ラグナウェルが緩慢な動作で前髪をかきあげる。 いい加減、無駄話に辟易したようだ。
「ファナ=ローズオリビアは紛れもない不死者だ。 だが、肉体的には不死であろうとも、その魂は違う。 魂の管理者たる“死せざる王”のチカラを借りれば滅ぼすことも可能だろう」
途方もない話ではあるが、神が遺した祭器が現実に存在しているのだ。 手を拱いたまま死神の鎌に首を刈られるより、遥かに現実的だろう。 それに、“神”の存在を説くのは思想や哲学を生業とする者だけの専売特許ではない。 俺のような異常者にこそ相応しいと皮肉るように付け加えた。
「ですが、此方の動向を知られた以上、そう易々とことは運ばないでしょう」
それまで押し黙っていたアーネルが苦言を呈する。
オルカザード家の目的がロアの遺跡だと知れた以上、ファナ=ローズオリビアは間違いなく最大の障壁となって待ち受けている筈だ。 尚且つ、遺跡を管理するアルル=モア公国も警備を強化することだろう。
「今までもそうだったさ。 ロアの湖底に“死せざる王”が眠るという記述をロストワードに見つけるまでは、雲を掴むような話だったからな」
ラグナウェルは口元にうすい微笑を浮かべ周囲を見廻し、
「それに、物事は常に表裏一体だ。 俺の目的を知った以上、ファナはアルル=モアから離れることができない。 怪我の功名だが、奴に見えざる楔を打ち込むことで、その動きを封じることができた。 ファナをロアの遺跡から引き剥がす手段を講じるのは全ての準備が整ってからでも遅くはない」
「じゃあ、差し当たって考えなくちゃいけないのは、玄室の封印を解く手段かな?」
ラールウェアが端整な顎先に指をかけ小さく呟く。
「それとこいつに儀式の手順を叩き込む必要がある。 屍霊術の素養があるとは思えんが、最低限の知識は必要になるだろう。 ラール、お前に任せる」
ラグナウェルは子供をあやすような仕草でプルミエールの脇下に手を差し入れて、その短躯を持ち上げる。 人族の少女は最後の干し肉を取り落としてしまい、小さく呻った。
「ええー、なんでアタシが……」
「プルもヤです。 こんなおバカじゃなくて、ラグナ兄さまがいいです」
「それはこっちの台詞よ!」
燻る火種が再発火。
このままお馬鹿の二乗が繰り広げる騒音被害が続けば、マイノムの廃城を引払う時期も早まるだろう。 いわく付きの土地で、夜な夜な若い女の金切り声が聞えてくる。 ありがちな怪談が麓の村で広がれば、良くも悪くも人目を惹いてしまう。 隠れ家としては不適当だ。
「お前が適役だろう大賢者殿」
「うう、イジメだ」
皮肉るような物言いに、ラールウェアが顔を顰めた。
だが、強くは否定できない。 屍霊の声を子守唄代わりに育ったオルカザード家嫡女が適役なのは自明の理である。 少なくとも、半屍族であるラグナウェルや武人肌なアーネルよりも屍霊術に関する造詣は深い。
「くっ、いいわよ。 そーと決まれば手加減抜きでビシバシいくから覚悟しなさいよ」
嫌々ながらも了承した。 下手に拒否して、ラグナウェルの機嫌を損ねることを避けたのだろう。 それに仇敵を目の届く範囲に置いておけば、これ以上出し抜かれる心配もないとの判断だ。
「いえいえ、つつしんでおことわりするです♪」
「馬鹿プリに拒否権はない。 それとコレを渡しておくわ」
ラールウェアが指を鳴らすと、薄闇に複数の蒼白い燐光が浮かび上がる。 不規則に揺らめく光は、互いに引き寄せあうように収束して、
「にゅ、シャル姉さまの首輪!?」
プルミエールの目前の空間に霊環アシュタリータが浮かんでいた。 少女は両手を伸ばし霊環を掴み取る。
「とりあえず預けておくけど、馬鹿プリが本当にこの世代の聖女なら外せなくなるから、間違っても首にだけは巻かないよう気をつけなさ―――」
「シャル姉さまとおそろいです♪」
皆まで聞く筈もなく、霊環はプルミエールの首元で本来の輝きを取り戻していた。
「……」
「ん?、うにー、外れません」
一呼吸遅れて話を理解したのか、小さな手で懸命に霊環を引っ張っているが外れる気配はない。
そして、それは同時にこの人族の少女が聖女の資質者であることを意味する。
「ま、まぁ、想定の範囲だからいいわ。 認めたくはないけど、馬鹿プリが聖女の資質を受け継いだのは確かなようだしね」
ラールウェアは小さく息を吐くと、何かを諦めたように瞑目した。
「話は決まったようだな。 それでは、日没を待ってアルル=モアを発つ。 準備をしておけ」
ラグナウェルは有無を言わせぬ強い口調で指針を示した。
既にプルミエールがオルカザードの屍族に拐かされた事実は、アルル=モア公王カタリナの耳にも伝わっている筈だ。 お忍びとはいえ、隣国アダマストルの王族が、アルル=モア国内で誘拐されたのだ。 ことが公になれば国際問題に発展するだろう。 加えてアダマストルとアルル=モアの王室には血縁関係がある。 公王カタリナはプルミエールの実父クサーの姉である。 つまりふたりは叔母と姪の関係なのだ。 遅くとも数日以内には、アルルーモア全域に警戒体制に敷かれると推察できる。
更に屍族とは違い、恒常性機能が劣る人族は三日も不飲不食でいれば生命活動に支障をきたす。 夜闇では明かりも必要になるだろう。 なにより、プルミエールと行動を共にする以上、人目は避けられない。 ロアの遺跡の封印を解くことが現時点で不可能だとわかった今、これ以上ここに留まる利点はなかったのである。
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